2009年06月26日

イラクに派遣された自衛隊は

イラクに派遣された自衛隊は戦死者が一人も出ていないと公式に発表されている。ただし、イラクを含む海外派遣任務に就いた1万9700人の自衛官のうち35人が在職中に何らかの原因で死亡している。内訳は海上自衛隊員が20人、陸上自衛隊員が14人、航空自衛隊員が1人となっており、死因は事故・死因不明が12人、自殺が16人、病死が7人と発表されている[43]。「在職中」には任務から帰国して以降も含まれており、イラク国内で死亡した自衛官の数はわかっていない、また、武装勢力側は、複数名の自衛官殺害戦果を主張している。

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戦闘終結後の民間人犠牲者総数の推計にはばらつきが多く、正確な数字はわかっていない。アメリカ軍は戦闘で殺害した武装勢力や、アメリカ兵の過誤(誤爆・誤射)で死亡したイラク民間人の数を公表していない(「数えていない」という発言がアメリカ軍上層部から出ている)。なお、報道を基にこれらを集計しているサイト"Iraq Body Count"の2007年11月30日付のデータによると、死亡者は約80,000-87,000人と集計されている。これはあくまでも報道された数に基づいた数値であり、正確な数値は判明していない。一刻も早い治安の回復が望まれているが、宗教的対立によるテロリズムは(暫定政府時点から)激化の一途を辿り、特に2006年7-8月には二ヶ月で6,500人の死者を出したと言われる。

Lancet Study による2004年10月の推計によると、兵士・民間人あわせて約98,000人という推計が出ている。ただし95%信頼区間が8,000人から194,000というもので大雑把な推計である。また、Lancetによれば死亡率増加の調査を基にした研究では、2006年6月時点でイラク戦争の死者は約655,000人になると推計された。ただし、あくまで死亡率増加からの推計であるため、直接の戦死とは直接結びつかない推計である。また、中華人民共和国の国務院が発表する「2007年アメリカ人権記録」によると、2003年以来のイラク民間人死亡数は66万人以上であるとされている。イギリスの世論調査会社・オピニオンリサーチビジネスが2007年9月14日に行った調査では、死者が最大で120万人を上回る可能性がある[44]という結果が出されている。世界保健機関は2008年1月に推計で151,000人だとする調査結果を発表している。

2009年06月10日

長期管理のマネジメント

気管支喘息のガイドラインとしては主だったものとしては日本アレルギー協会による一般臨床医のための喘息ガイドライン2007、日本アレルギー学会によるJGL2006,WHOによるGINA2006及びGINA2008,アメリカのガイドラインであるNAEP2007などが知られている。残念なことに喘息の診断基準というものは完成していない。日本アレルギー協会のガイドラインでは成人喘息の診断の目安が記載されている。

喘息に特徴的な症状
発作性の呼吸困難、喘鳴、夜間や早朝に出現しやすい咳。

可逆性気流制限
自然にあるいは治療により寛解する気流制限が認められる。PEF(ピークフロー)値の日内変動が20%以上、β2刺激薬吸入によって1秒率が12%以上増加、かつ絶対量で200ml以上の増加が認められる。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用
掃除秘伝

気道過敏性の亢進
アセチルコリン、ヒスタミン、メサコリンに対する気道収縮反応の亢進が認められる。気道過敏性を認める疾患は喘息だけではなく、咳喘息、アレルギー性鼻炎、慢性閉塞性肺疾患、うっ血性心不全、ウイルス性呼吸器感染後などでも認められるため注意が必要である。

これらによって気管支喘息と診断をしたら、長期管理を開始する。なお、発作中であったら発作の治療を優先する。長期管理の方法はガイドラインによってわずかな差異があるものの基本は殆ど同じであるためGINA2006に基づいて説明する。なおICSは吸入ステロイド、LABAは長期作用型β2刺激薬、LTAはロイコトリエン拮抗薬である。

GINA2006では治療目標である良好なコントロールに関して問診によって評価できるとしている。日中に週3回以上症状が出現する、喘息によって日常生活によって制限がある、夜間に喘息症状のために早朝おきることがある、症状を抑えるために気管支拡張薬を週に3回以上使用した、ピークフローが自己最高値もしくは予測値の80%未満である、喘息増悪発作が過去1年に1回以上ある、以上の6項目のうち3項目以上に該当したらコントロール不良であり、ひとつでも該当すればコントロール不十分、また喘息増悪発作が最近認められたらそれだけでコントロール不十分とする。3ヶ月ごとに治療効果判定を行い、コントロール良好群であれば、ステップダウンし、コントロール不良群であればステップアップする。コントロール不十分が持続する場合もステップアップを検討する。JGL2006ではステップ1が症状によって規定されており、その症状にコントロールするようにコントローラーを決定する。ステップ2のコントローラーでステップ2の症状が認められればコントロール不良でありステップ3にステップアップする。

2009年06月07日

退去強制(たいきょきょうせい)とは

退去強制(たいきょきょうせい)とは、出入国管理及び難民認定法(入管法)に定められた行政処分の一つで、日本に滞在している外国人を強制的に日本から退去させることをいう。退去強制の処分に至るまでの調査・審理手続を含めて言うときは「退去強制手続」という。関係官庁内では「退去強制令書」を縮めて「退令(たいれい)」と略され、報道等では俗に「強制送還」、「国外退去処分」と表現される。

なお、同法には日本国外の領域から日本に入国(正確には上陸)しようとして拒否される処分(退去命令。略称・退命)があるが、退去強制とは趣旨・条項・罰則等が全く異なる別概念ものとされている。報道等ではこちらも「強制送還」、「国外退去」と表現することがあり、両者を混同して認識する例が少なくない。

出入国管理及び難民認定法第24条各号所定の退去強制事由を要約して列記。この場合「本邦」とは日本国を指す。正確な退去強制事由は条文参照。(法令データ提供システム)
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有効な旅券を所持せず本邦に入った者、又は入国審査官から上陸の許可を受けないで本邦に上陸する目的を有して本邦に入った者(1号)
入国審査官から上陸の許可を受けないで本邦に上陸した者(2号)
在留資格を取り消された者(2号の2)
在留資格を取り消された者で、出国に必要な期間を経過して本邦に残留する者(2号の3)
他の外国人に不正に上陸許可、在留資格の変更許可、在留期間の更新許可等を受けさせる目的で、文書等を偽造し、偽造文書等を行使、貸与等をした者(3号)
本邦に在留する外国人(仮上陸の許可、寄港地上陸の許可、通過上陸の許可、乗員上陸の許可又は遭難による上陸の許可を受けた者を除く。)で次に掲げる者(4号)
資格外活動の禁止に違反して事業を運営する活動又は報酬を受ける活動を専ら行っていると明らかに認められる者(イ。人身取引等の被害者を除く。)
在留期間の更新又は変更を受けないで在留期間を経過して本邦に在留する者(ロ。いわゆるオーバーステイ。入院等正当な理由がある場合を除く)
人身取引等を行った者等(ハ)
旅券法違反の犯罪で刑に処せられた者(ニ。一部除外あり。)
入管法違反の犯罪で刑に処せられた者(ホ。一部除外あり。)
外国人登録法違反の犯罪で禁錮以上の刑(実刑に限る。)に処せられた者(ヘ)
少年で長期3年を超える懲役又は禁錮に処せられたもの(ト)
薬物犯罪で有罪の判決を受けた者(チ)
そのほか無期又は1年を超える懲役若しくは禁錮に処せられた者(リ。実刑に限る。)
売春に直接関係ある業務に従事する者(ヌ。人身取引等被害者を除く。)
他の外国人の不法上陸・不法入国をあおり、そそのかし、助けた者(ル)
日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを企て、若しくは主張し、又はこれを企て若しくは主張する政党等を結成し若しくはこれに加入している者(オ)
次に掲げる政党等を結成し若しくはこれに加入し、又はこれと密接な関係がある者(ワ)
公務員であるという理由により、公務員に暴行を加え又は公務員を殺傷することを勧奨する政党等((1))
公共の施設を不法に損傷し、又は破壊することを勧奨する政党等((2))
工場事業場における安全保持の施設の正常な維持又は運行を停廃し、又は妨げるような争議行為を勧奨する政党等((3))
上記政党等の目的を達するため、文書図画を作成・頒布・展示した者(カ)
そのほか法務大臣が日本国の利益又は公安を害する行為を行ったと認定する者(ヨ)
別表第1の在留資格で在留する者で、一定の刑法犯罪等により懲役又は禁錮に処せられた者(4号の2)
短期滞在の在留資格をもって滞在する者で、本邦において行われる国際競技会等の経過・結果に関連して、又はその円滑な実施を妨げる目的をもって、その会場等において不法に人を殺傷し、人に暴行を加え、人を脅迫し、又は建造物その他の者を損壊した者(4号の3。いわゆるフーリガン対策)
仮上陸の許可の条件違反者等(5号)
上陸拒否事由に該当し退去命令を受けた者で、遅滞なく退去しない者(5号の2)
寄港地上陸の許可等を受けた者で、許可期間を経過して本邦に残留する者(6号)
数次乗員上陸許可を取り消された者で、出国に必要な期間を経過して本邦に残留する者(6号の2)
日本の国籍を離脱した者又は本邦で出生した外国人等が在留資格を取得せずに、国籍の離脱・出生の日から60日を経過して本邦に残留するもの(7号)
出国命令を受けた者で出国期限を経過して本邦に残留するもの(8号)
出国命令の際に付された条件に違反したため出国命令を取り消された者(9号)
難民の認定を取り消された者

2009年04月24日

上海租界

上海租界(シャンハイそかい)は1842年の南京条約により開港した上海に設定された租界。当初、イギリス、アメリカ合衆国、フランスがそれぞれ租界を設定し、後に英米列強の租界をまとめた共同租界とフランスのフランス租界に再編された。これら2つの租界をまとめて上海租界と言う。

1842年、アヘン戦争によって清国が敗れるとイギリスは江寧(南京)条約で上海を租界として借り上げた。また、アロー戦争での敗北によってその他の列強も上海に利権を持つようになった。租界では治外法権が認められ、多数の列強の干渉と施政のもとで上海は急速に発展を遂げ、1920年代から1930年代にかけて租界は黄金期を迎えた。その後上海に発生していた歪みや日中戦争、第二次世界大戦によって上海の租界は終わりを迎える。1946年には上海にあったすべての租界は姿を消した。上海には今なお租界時代の建築が残っており活気に満ちた町であるが租界当時のそれとは違っている。

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アヘン戦争をきっかけに、1843年イギリスが上海に土地を租借し、続いて1848年にアメリカ合衆国、1849年にフランスもそれぞれ土地を租借、1854年英米仏が行政を統一して租界となった。しかし、フランスのみは1861年に再び単独のフランス租界とし、英米租界は1863年に国際共同租界となった。租界では行政権と治外法権が認められ、共同租界では工部局("Board of works”)、フランス租界では公董局が設置され、工部局と公董局は道路・水道などインフラの建設・管理、警察・消防などの行政自治権を行使するようになっていった。さらに、1865年には香港上海銀行が設立されたことをきっかけに、欧米の金融機関が上海に続々と進出しはじめた。こうして治外法権を認めた清政府の施政権もほとんど及ばない状態になり、変わって現れた英米仏の西洋文明を受け入れながら上海は変容していった。共同租界ではバンド地区や南京路を中心に、フランス租界は淮海路を中心に西洋街が築かれていった。

2009年04月22日

インダス文明

インダス文明 (インダスぶんめい、Indus Valley civilization) は、インド・パキスタンのインダス川及び並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明で、現在南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人によりつくられたと推定されている。考古学上は、ハラッパー文化と呼ばれ、パキスタン、パンジャブ州のハラッパーを標式遺跡とする。

インダス文明が栄えたのは紀元前2600年から紀元前1800年の間である。滅亡については諸説あり、現在では、地殻変動によってインダス川河口付近の土地が隆起し、そのために洪水が頻発して耕地に塩害をもたらし、さらにインダス川の河道が移動したことによって、水上交通を前提とした貿易によって機能していた都市の機能を麻痺させたためという説と、後述するように砂漠化に伴って都市が放棄され住民が移住したという説がある。

また、ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり一部が南インドに移住した。

文明の存在が認識されるようになったのは比較的遅く、イギリス支配下の19世紀になってからのことである。1826年に探検家のチャールズ・マッソンがハラッパーにある周囲約5kmに及ぶ巨大な廃墟について報告し、「紀元前326年にアレクサンドロス大王を撃退したポルス王の都シャンガラの跡ではないか」と推測している。1831年にもアレクサンダー・バーンズが調査中同地を訪れ地元の人から廃墟にまつわる「神の怒りによって滅んだ」との伝承を紹介し、本国イギリスで考古学的好奇心を大いに刺激するようになる。イギリスは既に18世紀に「アジア協会」を設立しており、任地インドに赴いていた元軍属のアレクサンダー・カニンガムが同協会の元でインド(及びパキスタン)考古学の基礎を築くことになる。カニンガムは1853年・1856年に最初のインダス遺跡発掘となるハラッパー遺跡の発掘を行い、未知の文字が書かれた印章・土器などが出土した[1]。

カニンガムは1862年、インド考古局の発足に尽力し初代局長となるがこの頃から鉄道敷設のため遺跡の建材を崩されてしまう課題に取り組まねばならなくなっていた。その後も第3局長ジョン・マーシャルらによってインダス文明の研究は発展していくこととなる[2]。

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技術
鉄は知られず、青銅器を使った。都市計画で知られるように建築技術が発達し、縦:横:厚みの比4:2:1で統一された焼成レンガが広く使われている。服は染色された綿で作られていたようで、染色工房と推定される場所が見つかっている。高い加工技術を要する極小のマイクロビーズや紅玉髄の装飾品も作られていた。

大小の都市が建設された。都市の規模は、メソポタミアのものよりも小さく、モヘンジョ=ダロとハラッパーがメソポタミアの小都市にようやく匹敵する規模であった。主な都市遺跡を下記に掲げる。(このほかに小規模の遺跡が多数知られる)

ハラッパー、カーリバンガン(パンジャブ地方)
モヘンジョダロ(パキスタン南部、シンド地方)
ロータル、ドーラビーラ(北西インドのグジャラート)
うち、モヘンジョ=ダロ、ハラッパーは、1km四方を超える規模をもつ。

都市には2種類あって、「城塞」と「市街地」が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、「城塞」と「市街地」を分けているタイプ(モヘンジョ=ダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。

行政 [編集]
排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。

土器やビーズなどの主だった出土品に見られる均質性の一方で、信仰や儀礼のあり方が地方によって異なる面がある。これを次に説明する。

モヘンジョダロの「城塞」には、しばしば、「大浴場」と呼ばれるプール状施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンのように、「城塞」の南区や「市街地」の東側の遺丘の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような再生増殖の儀礼と関係すると考えられるテラコッタ女性像やリンガ石と呼ばれる石製品が出土しない。また、南方のロータルを含むグジャラートでは、「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られるため、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。

都市遺跡からは、多くの「インダス式印章」が出土する。凍石製で、印面は、3?4cmの方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。動物は、サイ、象、虎などの動物のほかに後のインドの文化にとって重要な動物である牛が刻まれているのが目立つ。一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり、「シヴァ神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からもこのような印章の出土例がある。インダス文字は現在でも未解読の文字で、統計的分析などが出来る長文のものや、ロゼッタストーンのように多言語併記の物が出土しないことが研究の大きな障壁になっている。

農業
インダス川の氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の「せき」を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。また、牧畜を行った。

商業
装身具、主として紅玉髄製ビーズの製造。腐食ビーズと呼ばれる「紅玉髄製ビーズ」に白色の文様を入れる技術を持っていた。支配者層の装身具だけでなく、主要な輸出品でもあった。

盛んな商業活動。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行った。「メルッハ(国)」と呼ばれていたと推定されている。

埋葬
埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。副葬品は土器が一般的で、頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、その場合、銅製の柄鏡も出土している。重要なことは、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。

他の古代文明とは異なり、戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。

滅亡の原因
インダス文明滅亡の原因は、古くから論争があり、代表的なものとして、M.ウィーラーによる「アーリア人侵略説」をはじめとする外部からの侵略説がまず滅亡の原因として唱えられた。発掘調査によって埋葬もされないで折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説がとなえられた。また、ヴェーダなどの戦争記事がその根拠のひとつとされた。しかし、当時の発掘調査は、層位関係を考えないで地表からの深さのみを記録して行われた調査であったために同時期の人骨ではないということで否定された。

一方、前述の通り、かつてインダス文明が存在した地域は現在砂漠となっている。インダス文明が消えたのはこの砂漠化によるのではないかと言われている。

砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動が挙げられている。大西洋に広がる低気圧帯は、一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、さらにアラビア・ペルシア・インドにまで及んで、雨をもたらし、緑豊な土地になっていた。しかしやがてこの低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のような乾燥地帯にしてしまった、というのである。また、インダス文明が森林を乱伐したために砂漠化が進行した、という説もある。しかし、乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかと反論する研究者もいて決定的なものとなってはいない。

そのため、最近では紀元前2000年頃に地殻変動が起こって、インダス川の流路が移動したために河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説が有力になっている。実際のところインダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラー涸河床沿いに分布している。


2009年04月05日

看護師

看護師(かんごし)とは、医療などの場において以下の事柄を行う医療従事者の呼称である。

医師等が患者を診療する際の補助
病気や障害を持つ人々の日常生活における援助
疾病の予防や健康の維持増進を目的とした教育
女性を看護婦(かんごふ)、男性を看護士(かんごし)として区別することもある。(日本国においては、2002年3月以前はこれが法律上の名称でもあった。詳細は下記名称変更も参照。)

現代では、看護師の業務を行うためには、多くの国でその国が定めた看護専門学校や看護大学等の看護師養成課程における基礎看護教育を受けた上で国家試験等の資格試験に合格し、看護師免許を有している必要がある。
各国の看護師協会(NNAs:National Nurse's Association)からなる国際看護師協会(ICN:International Council of Nurses)は、「ICN看護師の倫理綱領」の中で看護師には4つの基本的責任があるとし、健康を増進し、疾病を予防し、健康を回復し、苦痛を緩和することであるとしている。

日本における概要 [編集]
日本において看護師は、法的には「厚生労働大臣の免許を受けて、傷病者若しくはじよく婦(褥婦(じょくふ)/出産後の女性)に対する療養上の世話、又は診療の補助を行うことを業とする者」と保健師助産師看護師法(略称「保助看法」第5条)に定められている。

また日本には准看護師(じゅんかんごし)の免許があり、法・制度的にみた看護師との違いとしては、准看護師は知事免許であり国家免許ではないこと、看護業務を医師、歯科医師または看護師の指示を受けて行なう(保助看法第6条)ことがあるが、それ以外の職務内容等については特に看護師との違いや規制は設けられていない。そのため准看護師が看護師とほぼ同様に看護業務を行っていながら、給与等に違いが生じているという実態が知られている。

同法第31条において、医師、歯科医師、看護師・准看護師以外の者が看護を行うことが禁止(業務独占)されており、同法第42条の3では「看護師」や紛らわしい名称を用いることが禁止されている。また同法第42条の2では「正当な理由がなく、その業務上知り得た人の秘密を漏らしてはならない。」と看護師への守秘義務が課せられている。

看護師の養成教育(看護教育)は、これまでは看護専門学校で中心的に行われてきたが、近年は医療の高度化や看護職の地位の向上などを背景に4年制の看護学部や医学部保健学科が増えてきており、2007年4月現在で看護師養成機関の定員の32.5%は4年制大学での教育を受けており、[1]、今後はさらに大学を卒業した看護師が増えるものと考えられる。

看護教育を受けた後、看護師国家試験に合格した看護師は、病院などの医療機関に勤務することが多く、こうした実地のキャリアと継続的な卒後教育を経て、認定看護師、専門看護師といった専門分野に関する認定を受け看護の提供を行う場合や、保健師、助産師など関連資格を取得する場合、看護管理者や訪問看護師、看護教員、看護研究者など職務内容や場を変更する場合といった様々な様相で看護に関わってゆくことが多い。

日本における免許区分と教育体制 [編集]

看護師 [編集]
看護師は看護高等学校(看護科、専攻科の5年間)、看護専門学校、看護短大、看護大学で養成教育が行なわれ、卒業すると看護師国家試験の受験資格が得られる。実際には卒業見込みの段階で国家試験を受験できるが、最終的にその年度で卒業できなければ、試験で合格点以上を獲得しても不合格扱いになる。国家試験に合格すると、申請により厚生労働大臣から看護師免許が交付され、看護師としての活動が可能になる。准看護師に対して俗に正看護師(略して正看)と呼ばれることもある。

准看護師 [編集]
准看護師(略称・准看)は准看護師学校(准看護師養成所)あるいは看護高等学校卒業後、都道府県知事試験の受験資格が与えられ、知事試験に合格すると都道府県知事から准看護師の免許が交付される。

准看護師が日本で設けられている背景には、戦後の看護師不足に対応するための暫定措置という性格がある。看護師には、ますます高度な専門的知識や技術が要求されるようになりつつあり、日本看護協会は、准看護師制度の廃止を希望しているが、幅広い労働条件の看護労働力を求める日本医師会などの要望もあり、検討段階にある。

厚生労働省の准看護婦問題調査検討会報告では、21世紀初頭の早い段階を目途に看護婦養成制度の統合に努めることを提言しているが[2]、直後に日本医師会は反対意見書を取りまとめている[3]。背景には、准看が正看より安く使える労働力であることが挙げられる。

現在、准看護師の養成校は徐々に減りつつあり、2004年より10年以上の臨床経験のある准看護師を対象に看護師となるための通信制の移行教育が始まり、2006年にはこうした教育を受けた者が国家試験を受験している。

看護師の専門性資格 [編集]
より専門的な能力を有し所定の審査を受けた看護師については、専門看護師、認定看護師として資格認定される。(詳細については、それぞれのページを参照のこと)

また平成14年に医療機関の広告規制が緩和され、平成19年4月から看護師の専門性についても広告ができるようになった。

看護教育体制の諸問題 [編集]
看護教育も参照

1989年の「保健婦助産婦看護婦学校養成所指定規則」の改正までは、看護士(現在で言う男性の看護師)に対しては精神科での勤務を想定した教育カリキュラムが組まれていたが、改正後は男女とも同一の教育カリキュラムとなっている。

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2009年03月21日

A寝台

A寝台(Aしんだい)とは、JR及びそこから乗り入れる私鉄における寝台車の区分の一つ。座席車のグリーン車に相当する。

車体の種別記号は等級記号であるイロハのロと、寝台車を表すネを組み合わせたロネである。三等級制時の一等・二等寝台車、2等級制時の1等寝台車にあたり、これらについても本項で記述する。

個室寝台車と開放式寝台車の2種類があるが
日本の鉄道における寝台車は、1900年(明治33年)に山陽鉄道が神戸 - 三田尻(現・防府)間急行に連結した一等寝台車が最初である。寝台は車両長手方向の上下2段で、下段は昼はロングシートとし、夜は背ずりを引き下げて寝台幅を拡張した[1]。山陽鉄道はさらに1903年(明治36年)には2等寝台車も開発している[2]。なお日本初の食堂車は、1899年(明治32年)5月25日に山陽鉄道が運行したが、このときの食堂付一等車の車両が食堂付一等寝台車だったとの説もある[3]。

以後、官営鉄道や日本鉄道が追随し、鉄道国有化後には長距離列車に欠かせない存在となった。地方の長距離普通列車にさえも、車体の半分が二等寝台となった合造車が連結されていた時期がある。

戦前の三等級制時代には、一等寝台車(記号「イネ」)は室内に折畳み洗面台を備えた2人又は4人用区分寝室、二等寝台車(記号「ロネ」)は2段のツーリスト式開放寝台を標準とした。ツーリスト式とは、窓を背にしたソファー形式の座席(一種のロングシート)が、夜間はそのまま下段寝台として使われる構造である。なお、上段は折り畳み式の寝台を使用した。

走り装置には、種々の艤装によって増加した車両重量に対応するため、3軸ボギー式台車が用いられ、軸重の軽減を図った。

当時の優等寝台車は多車種少量製作で変形車が多く、二等寝台車ではあるが、例外的に4人用区分寝室(コンパートメント)を備えた車両(マロネ37480形。後のマロネ38形)や、定員2名の特別室を備えた一等寝台車等も存在した(マイネ37130形。後のマイネ38・マロネ49形)。このマイネ37130形には、当時の鉄道大臣の発案で、改造のうえシャワー室を装備したものが1両存在し、特急「富士」に運用されたが、シャワー自体当時の日本人に馴染みがなく、同じスジに入るのが4日に一度と言う頻度であったことから利用も伸びず、短期間で消滅している。

変わった存在としては、ダブルベッドを備えた寝台車が、明治末期から大正中期に存在した。1910年(明治43年)9月より、旧新橋 ~ 神戸間の急行列車に連結された二等寝台車「ロネ9140形」に、「二等寝台二人床」と呼ばれる寝台が設けられた。これは大人2人が寝ることができるダブルベッドを備えたもので、夫婦での利用を考慮したものとされる。1912年に運転開始した日本初の特別急行列車、1・2列車(後の「富士」)に連結されたスロネ10055形のプルマン式寝台の下段も同様である[4]。この「二等寝台二人床」は、1918年(大正7年)11月に「二等寝台大型」と改称され、大人2人での利用は禁止された。その理由としては、当時、第一次世界大戦で巨額の富を得た成金が、芸者を連れて「不純な行為」をするなど、本来の目的からは離れた利用実態が、世間の猛烈な批判を招いたことにあるとされる。日本の寝台車においてダブルベッドが復活するのは、70年以上が経過したJR発足後のこととなる。

太平洋戦争の戦況悪化に共い、1944年(昭和19年)年4月に実施された決戦非常要領によって一等車および寝台車の連結が中止された。


戦後の展開 [編集]
戦後の一時期、疎開によって戦時改造を免れた数少ない優等寝台車は、進駐軍専用に運用されていたが、1948年(昭和23年)に戦後初の新造一等寝台車マイネ40形が新製され、この時期から日本人も利用できる寝台車が復活した。この車両は製造当初から冷房を搭載した日本で初めての寝台車である。なおこの年11月10日に復活した当初は“特別寝台車”と称し、翌年5月1日に一等寝台車と呼称を改めた。

その後一等寝台車の増備や、進駐軍接収の一等・二等寝台車の返還が進行し、また4人用区分室方式の二等寝台車(マロネ39形、スロネ30形等)が新製や在来車改造で登場した。こうして1950年代前半には日本各地の長距離急行列車において、一等、二等寝台車が、ほぼ戦前並みに復活した。
しかし、一等寝台は当時の航空運賃よりも高くなる区間があるなど、その運賃・料金の高さによって利用率が低迷する一方で、二等寝台車は需要が非常に高かったことから、1955年(昭和30年)7月1日に一等寝台は廃止され、車両は2等寝台車に格下げ統合された。旧一等寝台の形式称号である「イネ」も廃止され、「ロネ」となった。この際、旧イネの車両形式は「40」以上にまとめられた[5]。

このとき二等寝台車のうち、旧一等寝台区分室を2等A寝台、マロネ40のプルマン式寝台等、旧一等寝台開放室冷房付きを2等B寝台、マロネ29のツーリスト式寝台等、従前からの二等寝台開放室で非冷房のものを2等C寝台とした。

ただし、旧一等寝台でも冷房のないものは様々な基準で等級づけされ、実際の整理の経緯は複雑である。

たとえば、右の1955年等級改正対照表でマロネフ58形とされたマロネフ38形は0番台は、もと一等区分室をもっていたが需要が見込めず、これ以前に二等特別室(特ロネ)に格下げされており、このとき2等Aに分類されている。また、マロネフ38形(10番台)は、改正前同様に一等区分室を二等特別室に格下げ改造した際、洗面台を撤去していたので、2等Cとされ、マロネフ38形のままとされた。

従来から2等寝台であった客車は、全室4人用区分室のマロネ39形、スロネ30形も、一部区分室を含むマロネ38形も、ツーリスト式寝台と同様、すべて2等Cとされた。この後、1958年(昭和33年)増備されたナロハネ10形の2等部分はプルマン式寝台であるが、非冷房のため2等Cとされ、1959年(昭和34年)のオロネ10形は当初から冷房設備があり、2等Bとされた[7]。

なお、この頃までの一等寝台区分室は、2人または4人用のみであったが、1958年に開発された20系客車においては、2等寝台車に初の1人用個室寝台、「ルーメット」が導入された。これは、2等Aとされたが、従来の2等A寝台下段の料金よりも600円高い3360円の料金が別途設定されている。その他2人用区分室は2等A、プルマン式開放寝台は2等Bとした。

1960年に国鉄の等級制の整理が行われ、従来の2等を1等に、従来の3等を2等として2等級制になった。これに伴い優等寝台は1等寝台となったが、ABCおよび「ルーメット」の区分は廃止されなかった。

1961年にかつての2等寝台車の標準とされたツーリスト式寝台車が廃止され、事実上開放式の1等寝台はB寝台のみとなる。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

1967年(昭和42年)に登場した寝台電車581・583系においては、2等寝台のみの編成となり、1等寝台を製作しなかった。これは昼夜兼帯で使用されることが前提となっており、昼行列車1等車で標準のリクライニングシート車に比肩できる水準の1等寝台・座席両用の設備を開発することが困難と考えられたためである。なお、現存の583系寝台電車のA寝台車、「サロネ581形」は、後年の「サハネ581形」からの改造によるもので、昼夜兼用しないこと(寝台のみでの運用)が前提のため、これが可能となった。

2009年03月06日

海戦術の基礎概念を中心に取り上げる

戦則 - 海上作戦における任務達成のための各種行動の基本要領。戦闘教義。
戦勢 - 戦闘における戦力や行動における優勢であり、攻勢と守勢がある。
戦機 - 戦勢の攻守が転換する機。
戦策 - 戦術を実施するための画策。陣形・使用速力・基本方針・敵味方識別方法・各部隊の任務・戦闘開始時の運動などを定める。
艦隊 - 2隻以上の軍艦から編成される海軍部隊。狭義には海軍部隊の編制上の単位であり、艦隊の下位には船隊や群が置かれる場合がある。
戦略 - 海軍における狭義の意味では、敵と離隔した状況において部隊を効果的に運用する術策。
戦術 - 海軍における狭義の意味では、敵と接触した状況において部隊を効果的に運用する術策。
戦務 - 海軍部隊における戦闘を遂行するための航海・機関・砲術・機雷・飛行などの諸業務。
海象・気象 - 海象とは海洋の状況であり、気象とは大気の状況である。艦隊の運動に大きく影響する。
制海権 - その海域の支配権であり、海軍力によって支配は実行される。
航空優勢 - その空域における優勢であり、空軍力によって実行される。
主隊・直衛 - 主隊とは重装備の艦艇から成る部隊。直衛とは主隊の周縁部を占位して警戒などを行う部隊。
航行序列 - 航行するための艦隊の隊形である。
警戒航行序列 - 要警戒地域において航行するための艦隊の隊形である。
戦闘序列 - 戦闘するための艦隊の隊形である。
攻撃 - 火砲・ミサイルなどの火力を敵に対して使用すること。
機動 - 部隊の位置を変更すること。敵を発見してから行う接敵機動と敵と交戦を始めてから行う戦場機動がある。
展開 - 艦隊の序列を状況に応じて変更するための運動。
追撃・退却 - 追撃とは退却する敵に対するさらなる攻撃、退却とは戦闘で劣勢に置かれて行う後退。
小破・中破・大破 - 小破とは相当な時間を要せず整備部隊が修理出来る程度の損傷。中破とは相当な時間を要する程度の損傷。大破は整備部隊では修理不可能な程度の損傷。
基地 - 部隊を支援するための根拠地。戦時において外国に設置する前進基地などがある。

原則
海戦術の原則論には陸軍の戦術と共通しているという立場と共通していないという立場がある。現在までに以下のような原則が論じられている。

18世紀のロシア海軍黒海艦隊司令官フョードル・ウシャコフは海戦術の原則を論じている。[5]

敵兵力の一部に自己の全戦力を集中すること。
予期していない行動は敵の撃破にとって大きな価値があること。
損傷した艦船には積極的な支援が必要であること。
19世紀の米海軍のアルフレッド・セイヤー・マハンは『海上権力史論』において海軍戦略などを包括した理論体系を構築しただけでなく、海戦術の原則についても考察した。これには陸軍戦術について考察したジョミニの理論と類似している。

目標の原則
集中の原則
日本海軍の戦術学者秋山真之は戦史研究等から日本海軍の教義を研究開発した。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

攻勢 - 戦勢は攻勢を維持して積極的に攻撃すること。
先制 - 敵よりも先んじて機動・攻撃すること。
集中 - 敵の一部を全戦力で攻撃すること。
決戦 - 決定的な戦果を求めて敵を撃滅すること。
天候・地形の利用 - 部隊の特性や戦い方に応じて天候・地形を十分に利用すること。
奇襲 - 敵の不意を突いて攻撃すること。
独断専行 - 部隊指揮官は状況に応じ、自己の任務と権限を考慮して適切な独断を行うこと。
勇断決行

戦闘力
戦闘力とは戦力が持つ戦闘を遂行する能力であり、海戦術においては攻撃力、防御力、運動力、通信力の4要素からなり、それぞれ機力と術力の2つの側面を持つものとして考えることができる。機力とは物的な戦闘力の要素であり、術力とは人的な戦闘力の要素である。

攻撃力 - 艦艇または艦隊が攻撃を行う能力。火砲や水雷等の機力とそれらを操作する砲術や水雷術の術力から成る。
防御力 - 防御を行う能力。装甲や防水区画等の機力とダメージコントロールや戦闘準備等の術力から成る。
運動力 - 運動を行う能力。推進機関や航舵機関等の機力と運用術や機関術等の術力から成る。
通信力 - 情報伝達を行う能力。信号機や通信機等の機力と術力から成る。
軍艦では一般的に、攻撃・防御・運動・通信の基本的な比率が5:2:2:1であると秋山真之は論じている。戦闘力は概ね攻撃力に代表され、機力と術力の積で表す。例えば12門の砲と100発中20発の命中率(命中率5%)の攻撃力は240として考える。[7]

艦種
艦艇は海戦において戦闘単位であるが、その設計や装備から航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、フリゲート、潜水艦等の艦種に分類され、さらに排水量によってその規模が区分される。以下にいくつか艦種をあげる。

航空母艦 - 航空機の離着陸が可能な滑走路を甲板上に備えて航空作戦の支援が可能な艦艇を指す。
潜水艦 - 潜行することが可能な艦艇を指す。
戦艦 - 基準排水量が一般的な巡洋艦よりも大きい艦艇を指す。歴史的には19世紀以降に強力な火砲を装備した大規模な艦艇であったが、航空母艦の出現に伴う海戦術の変化によって現代では建艦されていない。
巡洋艦 - 基準排水量が概ね20000トン以下の艦艇を指す。歴史的にはフリゲートに装甲を備えた装甲フリゲートであったが、19世紀には遠洋航海に適した艦艇として発展した。
駆逐艦 - 基準排水量が概ね8000トン以下の艦艇を指す。歴史的には水雷艇を駆逐する艦艇であったが、現代では対空・対潜戦闘の装備を持つ汎用的な艦艇となっている。
フリゲート - 基準排水量が概ね5000トン以下の艦艇を指す。歴史的には軽量で快速な艦艇をフリゲートとしていた。
コルベット - 基準排水量が概ね1000トン以下の艦艇を指す。歴史的には沿岸警備等の目的で用いられる小型の艦艇を指し、第二次世界大戦後でもミサイル、魚雷、爆雷等を装備したコルベットが建造されている。
戦艦、巡洋艦、駆逐艦、フリゲート、コルベットの区別は明瞭な定義に基づいたものではなく、時代によってもその内容や名称は大きく異なる。 作戦部隊は以上の中でも航空母艦あるいは巡航ミサイルを装備した大型の巡洋艦(時代によっては戦艦)を中心として巡洋艦、駆逐艦、フリゲート、潜水艦、掃海艇、航空機などで編成される。また基地から遠く離れて活動する外洋艦隊は洋上補給兵力である給油艦、給兵艦、工作艦などを艦隊に加え、これらを通じて基地からの後方支援を受けて作戦行動を行うことが出来るようになっている。これらは対空・対艦・対潜能力を有機的に結合させうる航行序列で航行するように努め、また艦艇によって最高速力は異なるので陣形に乱れが生じないようように使用速力を最も遅い艦艇の速力で統一する。

2009年02月14日

雛鳥の囀with殻の中の小鳥

舞台はヴィクトリア朝風のある街。元調教師「フォスター」は国賊として追われる身であった。そんなフォスターを鉄道王「ドレッド=バートン」は自身の屋敷へと招く。かつての事件の書類を手に入れたドレッドにフォスターは逆らえず、その屋敷で暮らしていた少女「クレア」を始め、街で出会った4人の少女たちをメイドという名の娼婦に養育させていく。
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

雛鳥の囀
バートン屋敷の新しい主となったクレア。だが、そこへドレッドの遺産を狙う大財閥からキャロルが送り込まれて来る。屋敷は押収され、クレアもメイドの一員として働くことに。そしてキャロルはフォスターへメイドの調教を命じた。
殻の中の小鳥と雛鳥の囀の共通のシステムであるが、接客によって収入を得、調教によりキャラクター達のパラメーターを上げより高度な接客によって更なる収入を得るという独特のシステムをとっている。しかしキャラクター毎に体調の概念があり、高度な接客や調教によっては体調が落ち、接客どころか調教も不可の状態に陥るのである程度バランスを考えなければならないといった状況に陥る。

調教は全てカードによって行われる。 優れたカードを手に入れたとしても、キャラクターの各種パラメーターによっては優れたカードでも効果は発揮できず、カード同士の組み合わせによるカードコンボを発生させる事で各種パラメーターの経験値を効率よく上げる事がゲームを進める上で重要である。カードの配布に関してはランダムで行われる為、いつも狙ってコンボを組む事は出来ない。

エンディングも従来のゲームと違い、クレアを除く4人のメイド達に設定されている接客による収入がある程度行くとそのキャラクター達のエンディングを迎える。しかしエンディングを迎えたキャラクター達は当然屋敷から出て行くのでここでもバランスを考えなければならない。また接客の初歩である「お茶汲み」だけでもエンディングを迎えられるキャラクターもいる。

旧版との違い
殻の中の小鳥
キャラクターデザインを新井和崎によって一新。フォスターもかつての美少女ゲームの主人公の様に髪の毛で目を隠すといった事が無くなり、素顔で登場する。*また「渡り鳥に宿り木を」では壮年期のフォスターを見る事が出来る。
調教に新たにカードコンボといった概念が生まれた。
一部イベントの追加及び各キャラクター毎のエンディングが変更され、代わりに全員エンディングが削除された。
カードの手入れによりカードのレベルを上げられる。
雛鳥の囀
全体的な難易度の低下。
イベントCGの削減。
キャラクターの一人「フェイム・アー」が削除された。
またPC98版であったキャロルのメイド化が無くなっている。

登場人物
殻の中の小鳥
フォスター
主人公であり、プレイヤーの分身である年齢不詳の色男。
元政府特務機関ナンバー17、通称キュレイポートの非公式構成委員。
政治高官向けの高級娼婦の教育を行っていたが、現在は4つの案件で重要参考人として指名手配中。
クレアの母、ファーム=ド=ラキシンとはキュレイポート時代に出会っており、未だに彼女への想いは断ち切れてはいない。
キュレイポートに所属していた当時はリヒター=クラフトと偽名を使っており、ファームには、この名前でずっと接していた。
クレア=バートン
ドレッドの実の娘でメインヒロイン。
ドレッド=バートンと使用人ファーム=ド=ラキシンの間に生まれるが、当時の当主でありドレッドの父親であるグスコ=バートンはそれを許さずファームを屋敷から追い出してしまう。
後に当主となったドレッドはファームを捜し出すが、既に病で身体を壊していて、数年後に没する事になる。
フォスターと出会うまではその感情はごくシンプルなものであった。
視線が冷たく、いつもはかなげな表情をしている。
レン(結城 恋)
美術商の三人兄弟の末娘。ヒロインの一人。
母親は有名な画家、父親は世界中で行商を行う。兄と姉がいる。
父親に連れられヨーロッパ旅行中に列車強盗に会い父親は殺され、兄はレンをかばう様にして背中に銃弾を受けて死亡。
チェスター駅で助けられるが、その時点で生きる気力を失っていた。来るはずの無い迎えを駅の片隅で待つ。
英語が苦手なので寡黙な印象がある。
アイシャ=ファーファリス
橋の上で立つ娼婦。ヒロインの一人。
酒屋のバーテンと駆け落ちをするが生活はけっして楽ではなく、彼の為に橋の上に立つ事を決める。
フォスターと出会うようになってから、彼もアイシャの気持ちが離れている事に気付き、フォスターに身請けされた時には彼の姿は何処にも無かった…
直情的で我慢が出来ない性質であるが、惚れた男には尽くす方。
リース=ウェン=ネフタ
四人兄弟の長女。ヒロインの一人。
父親は商業で失敗していて、大きな借金を背負っておりその借金を返す為に、街の食堂で働いている。
借用書を手に入れたフォスターは借金を無くす代わりに、彼女をメイドとして屋敷へ来るように伝える。
料理はうまく、それ以外に家事もそこそここなす。
メイドとしては優秀な部類に入るが、妙な劣等感から無能だと思い込んでいる。
なお、98版テキストでは「大きいというより膨らみすぎな胸」、「ふくよかなお尻」、「たるんだお腹」など微妙にマニアックな体型描写があったが、CGにはあまり反映されなかった。
チェリー
ストリートチルドレンの少女と言うより幼女。茶髪を左右で(かなり雑に)縛っている。ヒロインの一人。
路地裏を家代わりに暮らしていたが、路地裏を根城としている子供達のルールを破った為に暴行を受けている所をフォスターに助けられ、そのまま屋敷へとついてくる。快活で物怖じしない性格。
98版では隠しキャラで、キャラデザも新井和崎ではなかったが、後の小説版、そしてWin版で新井デザインが新規に起こされた。
ドレッド=バートン
クレアの実の父親。
「鉄道王ドレッド」として有名。この時代で個人で二本の路線を所有する国内屈指の資産家。
彼の手腕は大陸中に知れ渡り、この大陸の交通を整備したといっても過言ではない。
裏で手をまわし、フォスターの公的な記録である議事録や書記原本を手に入れ、フォスターのかつての偽名であるリヒター=クラフト名義で手紙を出し、屋敷に招きメイド達の教育係として雇う。
ミュハ=レスレイ(美華 蓮麗)
博識の中国美人。
屋敷の管理とメイド達のスケジュール管理を一手に引き受けている。
ドレッドを慕っているが、年齢に差がある為にその恋は実らない。
メーア=エーデルシュタイン
銀髪の美女。
自分さえ楽しめればいいという性格。
メイドの調教を実際に行うのは彼女の仕事であり、少女達を磨くのが好きなのだが、時々加減を忘れる事が欠点である。
ファーム=ド=ラキシン
クレアの母親。
元々はバートン家の使用人であったが、ドレッドと恋に落ち、後にクレアを身ごもる。
だが、当時の当主であるグスコ=バートンは、跡取りと使用人の関係を認めるはずも無く、屋敷を追い出されてしまう。
金を貯めてクレアを引き取ろうとキュレイポートに雇われる。
そこで当時、リヒター=クラフトと名乗っていたフォスターと出会う。
だが、国規模の大スキャンダルに巻き込まれてしまい、ファームも追われる身となる。
しばらくしてドレッドが当主となり、ファームを探し出して屋敷へと戻るが、既に病で身体を壊していて、数年後に没する事になる。

雛鳥の囀
キャロル=ウェラクスタ
大財閥ウェラクスタ家の娘。父や兄たちに己を認めさせるべくこの町で事業を始め、手始めに屋敷を乗っ取ってフォスターに「接客」を再開させる。
一見女王様気質で、ほぼ同年輩のメイドたちに「奉仕」させる横暴さを見せるが、フォスターから見ればメイドたち同様の「雛鳥」でしかなく、篭絡して屋敷を取り返すのは不可能ではない。
なおDOS版では彼女をメイドに蹴落として調教することができたが、Win版ではカットされている。
リズ=バージェラック
キャロルの親友。名門の出らしくおっとりしたお嬢様だが、弓道をたしなみフォスターも引けない強弓を易々と引くなど、意外な芯の強さを持つ。
しかし、キャロルの方は親友とは思っていなかったらしく、実家の破産を機にリズをメイドとして「調教」するようフォスターに命じ、嬉々として「接客」させ、また己に「奉仕」させる。
クレア=バートン
前作から登場。屋敷の女主人に「昇進」していたが、キャロルによって再びメイドに「降格」される。
一見「接客」も「奉仕」も淡々とこなすが、フォスターへの想いは深く、他の少女たちへの嫉妬の色を見せることもある。
リース=ウェン=ネフタ
前作から登場。フォスターの支援で大学に通っていたが、キャロルのせいで学資の都合がつかなくなり、屋敷に呼び戻される。
その後も相変わらず「調教」、「接客」、「奉仕」に慣れることなく苦痛と屈辱の涙を流しては皆を喜ばせるが、なぜか逃げ出そうとも拒否しようともしない。
アイシャ=ファーファリス
前作から登場(ただしメイドにはできない)。パトロンの手を借りて酒場を開き、フォスターのいる街に戻ってくる。
本人は店の具体的な運営ができないため、少女エミットを雇っていたが…
結城恋
前作から登場(ただしメイドにはできない)。遥かな祖国から再びフォスターの元を訪れ、そして再び去っていく。
メイ=クルサード
プロのメイド。屋敷がキャロルに乗っ取られる前からおり、乗っ取られた後も「報酬さえいただければ」と残り、「調教」、「接客」、「奉仕」をも受け入れる。
実は過去にフォスターと因縁があって恋心を抱いているが、クレアとフォスターの姿を見てその想いを押し隠し、「金だけが目的」なのだと演じている。
エミット=クァール
キャロルの酒場の手伝い(実際にはすべての仕事を担当)。店を訪れるフォスターに恋心を抱き、情を交わしてしまう。
が、それがアイシャを本気で怒らせ、「泥棒猫」呼ばわりされて叩き出され、行くところもなく屋敷のメイドとなる。
なお、アイシャと性格的に通じるものがあるせいか、メイドたちの中でキャロルの扱いが一番上手い。
リリィ=カースン・フローラ=カースン
自称姉妹。しかし、リリィは白人の少女、フローラは有色人種の幼女で、まったく似ていない。
フローラの母ミュッタはリリィの生家でメイドを務め、リリィの養母的役割だった。そして、その裏ではリリィの父の「夜の妻」をも兼ねており、リリィいわく「本当に姉妹かもしれない」。
そんな父に反発したリリィは家を出、ミュッタの元に転がり込むが、そこにはミュッタの墓と幼いフローラしかいなかった。以後二人は姉妹として安食堂で懸命に働くが食い詰め、ついにフローラが「姉」に黙ってフォスターに体を売るまでになった。
フォスターの屋敷なら餓える事だけはないだろうと二人はメイドになるが、そのまま二人一緒に「調教」、「接客」、「奉仕」を強要される(なおWin版ではフローラ関係のイベントCGがカットされている)。
スミス=ランフォート
会計士(元財務官僚)。キャロルの会計処理を依頼されたフォスターと出会い、自らメイドとなって前作のミュハ的存在になる。
一見明るい才女タイプだが、官僚時代に人々を泣かせた苦悩を今も引きずっており、自らを罰するかのように積極的に「調教」、「接客」、「奉仕」を行なう。
モニカ=ハーベスト
機械工。キャロルのタイプライター修理を命じられたフォスターと出会い、タイプライターごと屋敷入りする。
言動はがさつで言葉遣いも男言葉に近く、また態度もきわめて反抗的(それを従わせるのがある種の魅力となる)。
フェイム=アー
サロンの歌姫。その歌声に惹かれたフォスターにひそかに身請けされるが、キャロルに見つかってメイドにされる。
ほとんど天然に近い悠然たる性格で、「歌さえ歌えれば」と「調教」、「接客」、「奉仕」をも平然とこなす。
なおWin版では、存在そのものをカットされている。

2009年01月28日

ペナン沖海戦

ペナン沖海戦(ペナンおきかいせん)は第二次世界大戦中の1945年5月16日にマレー半島北西岸、マラッカ海峡内に位置するペナン島沖で起きた日本海軍とイギリス海軍との間の海戦。第二次世界大戦中、最後の水上戦闘である。
マリゴール ユーロシ 法則 プロキオ パティ フェンリル ロボコン プラン とうみ ドロン デザイナー ひかわ ウンギョー クロスバー デリシ 宿儺南瓜 フロアマ バナバ ぶどう ハツユ ァサード パイ セミダブル ミコロン スキャンダル ピザク トライアル ギンリ ビコル カデット ブレーン エイド ヒート フロアス エーエスピ シュリン くわい サイト冬瓜 紀州 レーシ うたしない ベジス ブック ノベル ジャル ワイフ ニュー フリ モラテオ はっとう

背景
1945年2月の時点で、シンガポールにあった日本海軍の艦艇は第10方面艦隊(福留繁中将)に編成されていた。このうち健在なのは重巡洋艦「羽黒」、「足柄」、駆逐艦「神風」のみで、「高雄」「妙高」は行動不能、その他の南西方面艦隊に属していた艦は北号作戦に参加して日本本土に帰還していた。第10方面艦隊は日本陸軍よりアンダマン諸島への輸送の要請を受け、「羽黒」と「神風」に一部の武装を撤去して、弾薬、食料、燃料などの物資を搭載して出撃させた。物資輸送後は、アンダマン諸島に配置されていた一部の兵力を乗船して帰還する予定だった(に号演習)。

イギリス海軍の主力は1944年末から太平洋方面へ転戦。1945年1月からスマトラ島、ジャワ島空襲、3月からは沖縄攻撃を始めた。一方、インド洋の東洋艦隊もビルマの首都ラングーン占領のため増強され、4月に南部ビルマで防戦を企図していた日本陸軍が総崩れとなり、5月2日(3日)にイギリス陸軍第14軍がラングーンを占領した。

参加兵力
日本海軍
第10方面艦隊 第5戦隊 - 司令官:橋本信太郎中将
重巡洋艦:羽黒、駆逐艦:神風

イギリス海軍
第61部隊 第26駆逐隊 - 司令官:マンリー・ロレンス・パワー大佐 (Manley Laurence Power)
駆逐艦:ソマレズ (HMS Saumarez)、ヴェルラム (HMS Verulam)、ヴィジラント (HMS Vigilant)、ヴィーナス (HMS Venus)、ヴィラーゴ (HMS Virago)

経過
5月12日、「羽黒」「神風」の第5戦隊がシンガポールを出航。この動きを潜水艦「ステイツマン」、「サトル」から通報されたイギリス海軍の東洋艦隊は、要撃のため「デュークダム作戦」 (Operation Dukedom) を計画し、ラングーン占領支援を行っていた戦艦「クイーン・エリザベス」、「リシュリュー」を基幹とする第61部隊に要撃を命じた。14日にイギリス第61部隊は第21護衛空母群の艦載機から位置を知らされ、「羽黒」を攻撃する為にマンリー・パワー大佐指揮の第26駆逐隊を分派する。翌15日に第5戦隊も陸軍哨戒機よりイギリス艦隊の存在を知らされ、アンダマン諸島行きを中止し、ペナンへ退避を開始した。

16日、派遣されたイギリス第26駆逐隊のレーダーに捕捉される。2時10分、「羽黒」もレーダーでイギリス駆逐艦を発見し離脱を図った。しかし「羽黒」はスクリューシャフトに損傷を抱えたまま作戦に投入されたため全速が発揮できない状態だった。離脱を断念した「羽黒」は、接近する英艦隊に対しスクリューシャフトからの振動で照準に支障をきたしたまま砲撃を行ったが命中せず、逆に5隻のイギリス駆逐艦の放った魚雷のうち1本が「羽黒」に命中した。一方、羽黒は輸送任務のために魚雷を全て下ろしていた。橋本中将は「神風」に離脱を命じ、2時50分に「神風」は離脱した。「羽黒」は第26駆逐隊の集中攻撃を受け炎上、傾斜、沈没した。「神風」はペナンに退避し、陸揚作業の後、戦場へ引き返して「羽黒」の生存者救助を実施。 17日、シンガポールへ撤退した。

その後
イギリス軍はマレー及びシンガポールの奪回へ向けて「ジッパー作戦」 (Operation Zipper) を計画していた。作戦は当初6月初めに前進航空基地としてプーケット島の占領を計画していたが、計画は変更されて空母部隊の支援だけを行うことになった。予定では1945年9月9日にクアラルンプール南西岸に上陸作戦を行い、9月末頃シンガポールを奪回することとなっており、参加兵力として4個歩兵師団、1個機甲旅団他が準備された。8月にはイギリス東洋艦隊の大部分は作戦を準備中であったが、8月15日、ルイス・マウントバッテン司令官は全ての作戦の中止を命令した。

拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟・騰越地区で行われた、日本軍と中国・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。

太平洋戦争当時のビルマ(現在のミャンマー)の地理目次
決戦前夜
1942年5月5日 第56師団坂口支隊(歩兵団長坂口静夫少将)、拉孟を占領。同師団の第113連隊が警備につく。恵通橋爆破
1942年5月10日 第56師団、騰越を占領。同師団の第148連隊が警備につく
1942年11月末 南方軍総司令官寺内寿一元帥、拉孟を視察
1942年末 女流作家水木洋子女史が拉孟へレポ取材に来る
1943年春 日本放送協会から派遣された慰問団が拉孟を訪問
1943年3月27日 ビルマ方面軍創設。新たに1コ師団(第31師団)を増強
1943年10月30日 第18師団、フーコン谷地において雲南遠征軍の攻撃を受ける(?1944年6月)
1944年初頭 拉孟に慰安所ができる
1944年1月30日 ビルマ方面軍隷下に第28軍が新設される
1944年2月 水上源蔵少将が(龍)の歩兵団長に任命されて、騰越に派遣。その後まもなく、水上はミイトキーナに派遣され同地で自刃
1944年3月 雲南遠征軍の一部が拉孟北方に進出する。
1944年3月8日 ビルマ方面軍隷下の第15軍、インパール作戦開始
1944年4月8日 ビルマ方面軍隷下に第33軍が新設される
1944年4月10日 蒋介石、雲南遠征軍の攻勢作戦を決断
1944年4月29日 第33軍、メイミョー(軍の補給基地であるマンダレーより東)に移動。混成24旅団(武兵団)、第53師団、第33軍に配属
1944年4月下旬 衛立煌大将、総司令部を楚雄から保山へ移動
1944年5月10日 チンディット旅団、モール(マンダレー北部)から自主的退却
1944年5月11日夜 雲南遠征軍反攻開始
1944年5月13日 第53師団、モール占領
1944年5月17日 雲南遠征軍、ミイトキーナ飛行場を奪取。ミイトキーナの戦い始まる
1944年6月2日 雲南遠征軍が拉孟に侵攻する
1944年6月27日 雲南遠征軍が騰越に侵攻する

[編集] ビルマ方面軍作戦区域

1944年4月のビルマの戦いの状況1944年4月ごろのビルマ方面軍の編成表

ビルマ方面軍(基地ラングーン)
第15軍(インパール、コヒマ方面) 第15師団、第31師団、第33師団
第28軍(西南海岸方面) 第2師団、第54師団、第55師団
第33軍(北ビルマ、雲南方面) 第18師団(菊兵団)、第56師団(龍兵団)
第53師団(安兵団)
混成第24旅団(武兵団)

拉孟の戦い
序章
拉孟は、中国名を松山といって無名の廃村である。拉孟は、怒川の西岸にあり、恵通橋を眼下に見下ろす海抜2000メートルの山上にある。東は怒川の大峡谷を挟んで、対岸の鉢巻山と相対し、北方および南方は、怒川の二つの支流の深い渓谷に挟まれている。西方のみが、ビルマ行路に沿うて龍陵に通じていた。気候は内地に似て、四季の変化に富んでいた。とくに秋は美しかった。 42年5月に同地を占領した第56師団は、その隷下の歩兵第113連隊長(連隊長松井秀治大佐)の指揮のもと、歩兵1コ大隊、砲兵1コ大隊の兵力で陣地構築にとりかかり、堅固な防衛陣地を築き上げた。 43年中期以降、雲南遠征軍の反攻準備が進展すると、空陸から拉孟陣地を攻撃するようになり、守備隊をそれに反撃しつつ約100日分の武器弾薬食料の集積に努めた。また軍属によって酒保(売店)や慰安所が開設された。 44年3月に雲南遠征軍の一部が拉孟北方の大廉子で怒江を渡河し、反攻してきた。松山大佐は2コ大隊に砲工兵の一部を率いて紅木樹方面(拉孟北方)に出撃し、怒江の水際でこれを破った。また歩兵第2大隊長は部隊を率いて平戞(へいかつ 拉孟より40キロ南)へ出撃した。その後も、ミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃滅など、各地を転戦し6月5日、騰越に全部隊が終結を終えた。松山大佐は結局、拉孟に復帰することはなかった。それより3日前にジョセフ・スティルウェル米陸軍大将が再建した20万の中国軍(雲南遠征軍・指揮衛立煌将軍)の一部4万8千名が拉孟を包囲した。残りは騰越、龍陵、平戞に向かった。対する拉孟守備隊の兵力はわずか1280名であった。拉孟守備隊は野砲兵第56連隊第3大隊長金光恵次郎少佐が指揮した。

1944年7月頃の雲南方面の状況。中国軍による騰越、拉孟、平戞、龍陵の攻囲
[編集] 反撃
当初、拉孟守備隊の主力である歩兵第113連隊は、2800名ほどいた。ところが3ヶ月前に拉孟北方に現れた敵軍のために兵力を割かなければならなかったなどしたため、雲南遠征軍が包囲したときにはその半分にも満たなかったのである。そのときの守備隊の陣容は次のとおりである。

歩兵第113連隊の一部 400名
野砲兵第56連隊第3大隊 380名
輜重隊第16連隊第1中隊の一部 60名
第56師団衛生隊第3中隊 100名
第56師団防疫給水班の一部 40名
前線にて負傷した兵 300名
〔火器〕 10センチ榴弾砲8門・山砲2門・速射砲2門・高角砲4門

負傷した兵を除くと戦闘員は、実質1000名に満たなかった。 一方、拉孟を包囲した敵戦力は、蒋介石の、直系栄与第1師団(日本の近衞師団)を中心とする5個師団。この軍は、新式装備、兵の質もきわめて優秀な精鋭部隊であった。

兵力 48000名
〔火器〕 15センチ榴弾砲7門・山砲、速射砲74門・重迫撃砲、迫撃砲332門 ※これにさらに兵、武器弾薬の補給が加わる

敵対比率は、50倍以上も開きがあったにもかかわらず拉孟守備隊は100日間も粘り強く戦闘が行われたのである。

6/2午後、雲南遠征軍、怒江東岸の鉢巻山から拉孟陣地(怒江西岸)に対して攻撃開始
6/7午後、新第28師長、李士奇将軍戦死
6/14 新第39師(師長洪行少将)、拉孟北方より攻撃開始
6/20 新第28師長主力の2個連隊が再攻撃 栄与第1師団(師長李密少将)、攻撃開始
6月末 恵通橋開通(衛立煌大将は、2年前に日本軍の急追を逃れるために自ら爆破した橋をこんどは反攻作戦のために復旧工事していた)
6/28 日本陸軍機10機、拉孟上空から空中補給(それ以降もたびたび行われた)
7/4?15 雲南遠征軍第2次攻撃(このころからロケット砲が登場し、拉孟守備隊はこの攻撃によって兵を大きく失う。しかし、この攻撃にも守備隊は耐え、蒋介石は"逆感状"をもって雲南軍を叱咤激励した)
7/20 雲南遠征軍第3次攻撃
7/27 ビルマ方面軍司令官河辺正三中将から拉孟守備隊の勇戦に対し、感状が届く。翌日、第33軍本多政材軍司令官からも感状 
8/12 挺身破壊班、雲南軍陣地を奇襲
9/6 金光少佐戦死
9/7 後任の真鍋邦人大尉戦死(死後、少佐に進級)。戦闘終結
拉孟が陥落する前、真鍋大尉は3人の部下を脱出させていた。(別にほか一名が脱出)彼らは無事、芒市の第33軍に辿り着いた。本多軍司令官はそこで拉孟守備隊の悲壮な末路に涙したという。また、この戦闘で20名いた慰安婦のうち、15名の日本人慰安婦は自決、5名の朝鮮人慰安婦は雲南軍に投降した。

騰越の戦い
序章
騰越は最前線の拉孟から北西60キロ地点にある。騰越は、雲南省怒江西地区随一の都会で、騰越平野のほぼ中央にある。人口4万、周囲に城壁をめぐらした城郭都市で、1630年に、政緬軍の将軍が築いたといわれる。 城壁は周囲約4キロ、ほぼ正方形で、高さ5メートル、幅2メートル、外側は石、内側は積土によって重ねてあった。 周囲は高地に囲まれ、東には高黎貢山山脈を縦走し、怒江に架かる2つの橋を渡って、保山、昆明へと続いていた。西方には穀倉地帯が広がり、北ビルマのミイトキーナをへて、インドに通じていた。 気候は、比較的温暖。住民は、漢民族、タイ人、シャン人などが占められていた。

市街の周囲には、3キロほどの平地を隔てて、独立した高地があった。北方には高良山、北東2キロに飛鳳山、南方2キロに標高200メートルの来鳳山、西方4キロに宝鳳山である。これらの高地からは、騰越はまる見えであり、騰越防衛のためには、これら周囲の高地をも防衛しなければならなかった。これらを防衛するためには少なくとも3個連隊ほどの兵力(約7000名)が必要であったが、実際、防衛したのは2千名であった。 騰越を防衛した指揮官は蔵重康美陸軍大佐だが、本来ならば上司の水上源蔵少将がその役目であった。 水上は昭和19年2月に『龍』の歩兵団長に任命され、騰越へやってきた。前任の坂口静夫少将は中将に進級し、第55師団(『壮』)の師団長として転出した。水上は猛将といわれた坂口少将と違って軍人というより学者肌の静かな将軍であった。 それからまもなく、バーモ、ナンカン付近(龍陵から南西100キロ地点)に降下した英軍空挺部隊掃討のため、水上は騰越を後にした。 その留守を部下の蔵重大佐に託した。水上は、「騰越こそ自分の墓場である」と語ったが、実際彼が戦死した場所は、騰越から北西にいったミイトキーナであった。

反撃
6月22日、蔵重大佐は兵力をつぎのように配置した。

飛鳳山陣地=第3大隊 長 宮原春樹少佐 第3大隊主力、速射砲中隊(1門)、野砲1中隊
来鳳山陣地=連隊砲中隊 長 成合盛大尉 速射砲中隊(1門)、歩兵第6中隊、第2機関銃中隊の1個小隊
宝鳳山陣地=歩兵1個小隊 長 岡崎均少尉 混成歩兵1個小隊、機関銃1個分隊 、迫撃砲1門
城壁、東営台陣地=歩兵1個大隊 長 早瀬千歳大尉 混成歩兵3個小隊、連隊砲2個小隊(2門)、速射砲2個小隊(2門)、機関銃2梃
高良山陣地=歩兵第9中隊の一部 長 副島秋義准尉 歩兵第9中隊の1個小隊 第2機関銃中隊の1個分隊
予備隊=第2大隊 長 日隅太郎大尉 歩兵第5中隊基幹
ところがその2日後に、第56師団司令部から宮原少佐の第3大隊を抽出するよう命じてきた。蔵重大佐はこのままでは、騰越防衛のメドが立たないと思ったが、師団の苦しい立場を考え、これを受け入れた。結局、蔵重大佐は飛鳳山陣地を放棄して陣地配備を変更した。当時の守備隊兵力は、次の通りであった。

騰越守備隊長 蔵重康美大佐

歩兵第148連隊本部 110名
同第2大隊主力 650名
同第1大隊残留者 80名
同第3大隊残留者 70名
連隊直轄部隊 340名
第56師団歩兵団残留者 42名
野砲兵第56連隊第1大隊 35名
師団通信隊1個分隊 12名
師団衛生隊の一部 20名
第1野戦病院主力 150名
収容患者 250名
野戦倉庫 14名
憲兵派遣隊 10名
野戦郵便所 7名
防疫給水部の1個小隊 45名
師団病馬廠の一部 25名
工兵第56連隊1個小隊 40名
歩兵第114連隊第1大隊残留者 100名
輜重兵第56連隊の一部 18名
歩兵第146連隊の一部 7名
計2025名であった。 一方、対する雲南遠征軍の兵力は49,600名であった。兵力差は実に25倍であったが、騰越守備隊は2ヶ月以上も騰越を死守したのである。

6/26 騰越師団通信隊、敵部隊間の交信情報をキャッチ
6/27 午前6時、雲南遠征軍、来鳳山陣地を砲撃 〔騰越城攻防戦の始まり〕
6/29 高良山陣地(守兵25名)をめぐる攻防 副島准尉戦死
雲南遠征軍は、騰越前面に予備第2師、第36師、第198師、第130師の4個師団。また第116師が、騰越南方を遮断し、龍陵への道路を遮断した。これにより騰越は完全にとりかこまれてしまった。

7/26 戦爆連合57機、陣地を猛爆
7/27 蔵重大佐、外郭陣地を放棄し、城壁陣地に後退
7月27日以降、騰越守備隊は騰越城に籠って、9月13日の玉砕するまで戦いを続けた。

玉砕
城内の防御に移った蔵重大佐は、次のように兵力を配備させた。

城壁の南半部と旧英領事館陣地 日隅大隊 400名
西面北部,西北角、北面の大部分 早瀬混成隊 200名
東北角、飲馬水の陣地 高木隊 300名
中央門付近陣地 本部及び予備隊 200名
その他 病院 200名
防御施設

各門外と城壁角 石とコンクリートのトーチカをつくり、鉄条網をめぐらす。周辺には掩蓋陣地
各城門の上と城壁角上 積土、木材をもって、中程度の掩蓋をもつ砲座を設け、5,6箇所の防空壕兼用の休息所の設置
城内の各道路に軽掩蓋の陣地を構築。これを結ぶ交通壕と防空壕の設置
城外市街地の住民の移転、主要地点の射界の排除